診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~病院勤務時代②~メーカー転職活動編

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第二回です。前回は、新卒で勤務した熊本の病院勤務時代を振り返りました。今回は2社目の病院での勤務、メーカーへの転職活動に至るまでを書こうと思います。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

幼少期から学生時代、新卒社会人までずっと過ごした熊本を出て、たったひとりの沖縄生活が始まりました。26歳のときです。学生時代の友人、職場の先輩後輩、親族、それまで私の関わってきた人たちがすべていなくなり、本当に1人になった気分でした。今で言うと異世界転生アニメの主人公状態でした。

出社初日まで、生活必需品の準備や、愛車で沖縄ドライブなどをして過ごしました。ドライブ先で沖縄の青い海を眺めながら、熊本の友人や前職の先輩などに電話をかけて声を聞かせてもらっていました。

買い物に行けば、スーパーに置いてあるものも熊本と全然ちがうことに驚きました。沖縄そばの麺がたくさん売ってる。見たことない豆腐が売ってる。刺身が売ってない。輸入食品がカルディーコーヒー並みにたくさん売ってる。

気候もそうですが文化の違いも新鮮でした。ただこの出社初日までの期間は、とにかく孤独に耐えることに必死でした。

いざ出勤してみると、幸せなことに、寂しいなんて思うひまはまったくありませんでした。もう目からうろこの連続。

総合病院なので、私が経験していない診療科からの検査オーダーも新鮮でしたし、病院の規模が大きいので所属放射線技師の数も多い(法人全体で40名ほど)。

そしてこれまで女性技師と関わることは同級生以外になかったですが、初めて女性技師が10名弱のチームをなしている組織に入りました。それまで職場の女子トークは、もっぱら看護師さんたちとしていましたが、放射線技師同士だと、また雰囲気が違って楽しい。

検査内容についても、ルーチン内容も違えば右左のマークをつける位置、レントゲン2方向のフイルム割(レイアウト)のルール等、細かいところも何もかも違いました。これまで仕事をするにあたり、世界共通だと思って(前職の先輩たちはまだそう思ってるかもしれない)法律のように遵守してきたルールが、一歩その病院を出てみれば、何の意味も持たないものになっていました。自分が今置かれている状況が世界のすべてではない、ということを20代の頃に身をもって知ることができたのは、今考えても幸運だったと思います。

沖縄のこの病院は、沖縄外から来ている同世代の技師も多かったですし、勤務を始めて少し経った頃からは、何とか存在感を出さなければ!と思い始めていました。

一般撮影(レントゲン)の検査件数も多く、手術件数も多かったのですが、熊本の前職では整形外科の一般撮影ばかりこなしていた自分にとって、正直楽勝でした。全身撮影しなければならないような外傷の急患も、私が率先して検査をこなし、そのようなところから業務上も徐々に同僚から信頼をされるようになっていきました。

その結果、私は早々にマンモグラフィーとエコーを習得させていただき、最終的にはグループ内の総合病院、健康管理センター、療養型病院を同時に担当する、イレギュラーな立ち回りをしていました。

健診業務は数人の女性技師でローテーションしていましたが、MRIを操作できる女性技師は私だけだったので(画質改善・撮像時間短縮を提案し、MRIのスキルを全力アピールしました)、療養型病院のMRI検査担当、当直待機も担当できました。私は午前中に総合病院の一般撮影の撮影、もしくは健診のマンモ・エコー担当、それが終わったら、昼休みに愛車のMR-Sで療養型病院の当直待機をしに移動、という生活でした。那覇空港が近いので、うかれたレンタカーの車列の中に、白衣の女が運転する熊本ナンバーの黄色いスポーツカーが1台。

Woman patient having ultrasound scan on modern machine to prevent breast cancer

“女性は○○”は嫌だ!と言いながら、マンモグラフィーの認定技師や乳腺エコーなど、女性が活躍できるところはしっかりちゃっかり押さえていました。しかし思い返せばそのおかげで、次の転職、次の次の転職ができたと言っても過言ではありません。超音波検査用造影剤の製品担当、超音波画像診断装置のマーケティングに後々従事することになるからです。

プライベートでも、皆さん想像されるように沖縄は非常に楽しい土地でした。沖縄の文化を知らない私に、職場の先輩や同僚は、ほんとに親切に沖縄のことをいろいろ教えてくれました。週末は、昼から海岸でビーチパーティ、今思えば長い旅行に出てたのかもしれない、とまで思います。

そんな毎日を過ごす中、私は20代後半、沖縄で一生暮らす決心をし、結婚しました。しかし、いろいろあって離婚、その後もしばらくはそれまでと変わらず仕事を続けていました。気付けば沖縄に来て5年が経とうとしていました。

沖縄に一生いると言って結婚し、結果別れてしまったので、周囲の人たちに申し訳が立たず、「もう沖縄を出ないといけないな、熊本に帰ろうかな」と思っていました。でも結婚式に熊本の親族・友人を沖縄までお招きしたし、熊本に帰るのも正直恥ずかしい。

行き場がなく、熊本の病院や健診機関など面接にも行ったりしていましたが、なんとなくピンとこず、転職に踏み切れずにいました。沖縄の同僚たちは「いつまででも沖縄にいればいいさ~」と言ってくれてはいましたが。

でももう結婚への焦りもゼロだし、仕事を頑張りたい。バリバリ思いっきり仕事に打ち込みたい。

その頃、「リッチマン、プアウーマン」という月9ドラマが放送されていたのをご存じでしょうか。小栗旬さんが若手社長で、石原さとみさんが就職難民女子を演じた、いわゆる東京のおしゃれビジネス街~!みたいなキラキラした世界観のドラマです。私はそのドラマにとてもとても憧れ、東京で働いてみたいよ~!!とその思いを募らせるようになりました。

そんなある日、登録していた転職サイトから、医療機器メーカーの求人があるので応募しませんか、とお声掛けいただきました。正直、そのポジションも職責もよくわかりませんでしたが、「東京の会社で働けるチャンスがあるならなんでもいい!!」と思い、電話面接と沖縄での面接を実施いただきました。

「私田舎者丸出しだったな、恥ずかしい」と、完全にあきらめていたところ、「東京の本社で最終面接です」と連絡をもらいました。

「えええ!!!まじで!!」あのリッチマンプアウーマンの主題歌が頭でずっとリフレイン。

そのまま主題歌が頭の中に流れたまま、面接会場の赤坂TBSの隣の坂を履きなれないパンプスで駆け上がりました。

そしてそこで出会ったのは、小栗旬のような若社長。ではなく、現職ジェイシーエルコンサルティング顧問、松本英嗣でした…。

※この原稿を顧問にチェックしてもらった際、「おい!俺が出てきて残念みたいじゃないか!」と言われましたが、「はい、小栗旬に比べれば残念です」と正直に言いました。小栗旬を期待していたら、一般社会のたいていの男性は残念じゃないでしょうか(私だけ?)。

これが約10年前。結果的に長い付き合いになる、私と松本さんの出会いとなりました。

次回はこの医療機器メーカー転職活動の詳細をスタートから綴ります。・・・次回へ続く

余談ですが、前回までの私のコラムを熊本で暮らす父が読み、「なんだか波乱万丈の半生だなあ。父親として申し訳なくなった。」とLINEが来ました。

…お父さん、今頃気付いたの?私こそ、こんな好き勝手に生きさせてもらってごめんね。

父は私とは対照的な半生で、大学を卒業してから40年間熊本県職員として働きぬき、私と弟、2人の子どもを立派に(?)育ててくれました。

ただ私だって女性ですから、この少子化が叫ばれる社会で、1人自由に生きていることに何の後ろめたさもないわけではないのです。私がするべきは、育児をされている方々に少しでもお力添えをすること。育児で忙しい友人の代わりに買い出しに行くなど、育児のお手伝いをする。家族参加のキャンプなどのファミリーイベントでは、できるだけ子どもたちのお世話をして、パパママたちにもゆっくり楽しんでもらう。そしてきちんと労働してきちんと納税する。全然足りないとは思いますが、私にできることとしていつも心がけています。

 

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