診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~病院からメーカーへの転職活動、一次面接編

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第三回です。前回は病院から医療機器メーカーへの転職に動き出した瞬間と、現職JCLコンサルティング顧問、松本さんとの出会いまでを振り返りました。今回は前回割愛した、沖縄でのメーカーへの転職活動詳細を書こうと思います。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。  

私は、新卒1社目、熊本の病院勤務時代から、医療機器メーカーのアプリケーションスペシャリストの方々に憧れがありました。

前回までのコラムでも書きましたが、メーカーのユーザー向けサイトにスタッフの方々が技術解説をされていたり、研究会やユーザー会で講演をされたり、私にとってはもはや芸能人でした。

またそのような方々が、装置トレーニングなどで職場まで来てくれたときには、できるだけ仲良くなろうと超が付くほど積極的に話しかけていました。私の職場の先輩たちが知りえないことをこの人たちは知っている、と思うと尊敬の念がやみませんでした。           

 

診療放射線技師という仕事は、装置がなければ仕事ができません。また、勤務先の病院に導入されている装置しか使えません。勉強して、「この機能は診断にこのように役立つ」、という情報や知識を得ても、勤務先の病院がその装置・機能にお金を出してくれなければ現場で使えないのです。「この病院にいる限りはこの病院でできることしかできないけど、私はこの病院に骨を埋めるって決めたんだ」と、諦め半分、覚悟半分で毎日を過ごしていました。  

それでも世界を広げたくて、6年勤務した後に沖縄の総合病院に転職しました。そこで確実に私の世界は広がりました。始めて操作する装置もあれば、前職の病院と同じ機種も入っていました。

これはMRIだったのですが、撮像時間が前職の病院の2倍ほど長いのに、分解能が低くてぼやぼや!これには我慢ができず、熊本から撮像条件を細かく教えてもらい、コピーしてシーケンスを作ったりしました。躊躇せずそれを先生や技師の先輩に提案しましたが、「新入りの女子が何言ってんだよ」と思われたのでしょう。「ルーチン以外余計なことをしないで」と、最初は言われました。でもちょっと変えてもらえれば、短時間で画質が見違えるほど向上していました。そうなるとやはり誰からも否定されることもなく、私の提案が採用されました。

最終的には、私のことを信頼してくれるようになり、撮像条件の検討やMRIガイド下乳房生検などのルーチン外の業務も任せてもらえるようになりました。

そして沖縄の病院で4年の勤務が過ぎたころ、離婚を経験し、次の生活の場を求めていた私は、熊本の病院・クリニック・健診機関への転職活動を開始しました。

それと並行して、医療機器転職サイトにも登録していました。でも、メーカーのアプリケーションスペシャリストの方は芸能人に見えていたし、どうせだめだと思って気にしておらず、登録したこと自体よく記憶にない、というのが正直なところです。

  熊本での転職活動においては、MRIが導入されている規模の病院の中途採用はなく、選択肢はクリニックや、健診機関のみでした。面接に行けば、その場で内定もいただけました。  

熊本弁でまた仕事ができるんだ!嬉しいな。…でも、今より病院規模も小さくなるしMRIにも携われないのか。と、思うと重い腰が上がらず、沖縄の人たちの優しさにかまけて、沖縄を出ると言いながらも結局は変わらない毎日を過ごしてしまっていました。

そんな中、何気なく登録していた医療機器メーカー転職サイトから連絡があり、

「造影剤のアプリケーションのポジションに興味はありますか」

正直、造影剤自体に興味はありませんでした。というかCTやMRIのアプリケーションならわかるけど造影剤のアプリケーションって何?

でも、当時の私は、小栗旬さんと石原さとみさんのドラマ「リッチマン、プアウーマン」の影響を受けまくっていたし、もう熊本を飛び越えても、東京に行くチャンスがあるなら絶対チャレンジしたいです!!という感じで、いただいたお話に飛びつきました。

  そして、一次面接に進みました。今はWeb面接が主流になっていますが、当時はそんなシステムは普及していないので、人事担当者との電話面接でした。

幸せなことに、沖縄の病院の上司や同僚は、私がメーカーを志望するのを全力で応援してくれており、勤務時間中に、検査が終わった骨密度検査室の中で電話面接を受けさせていただきました。照射録の裏紙に、メーカーを志望した理由や、私の経験、強みなど思いつくことをなぐり書きして、それを骨密度検査装置の寝台に広げて電話での面接を受けました。

沖縄でMRIのパラメータ変更を提案して成功したエピソードは鉄板、失敗例は、一般撮影のポジショニングがうまくできず再撮影を4回したら、患者さんから激しくお怒りを受けた経験…。などなどを思いつくままに裏紙に書き出して、握りしめていました。  

こちらはハブが出るような沖縄の病院の検査室から電話をかけていましたが、電話の向こうは、私がそれまでしゃべったことのないようなきれいな標準語の男性で、私のたどたどしい返答を本当に恥ずかしく思った記憶があります。東京の人と話している…。

回答内容は裏紙に書いてはいたけど、結果的にはほとんどそれは使えず、一生懸命自分の言葉でたどたどしくも思っていることを伝えた、それだけが記憶に残っています。 絶対落ちた。私はこのことを忘れようとしていました。  

そして、私にとっては思いがけず一次面接通過の連絡をいただき、「沖縄で、人事担当者と事業部上長の対面面接になります。月曜日か金曜日で候補日をお願いします」とコンサルタントの方に言われました。

一次面接をしてくださった人事担当の方にも、あの恥ずかしい電話面接のことを入社後に恐る恐る聞くと、「いや、けっこういいと思ったよ」と言われました。…どこが?と思いましたが、今はその方にも感謝してやみません。  

数日後、那覇空港のほど近くのホテルの会議室に、二次面接に臨むべく、スーツを着て愛車のMR-Sを走らせました。・・・次回へ続く。

 

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