診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~病院からメーカーへの転職活動、最終面接~医療機器メーカーキャリアスタート編

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第五回です。今回は念願の病院勤務から医療機器メーカーへの転職活動も佳境、最終面接から医療機器メーカーのキャリアスタートまでを書かせていただきます。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

 

沖縄の病院から東京勤務の医療機器メーカー入社の夢に向かって、沖縄での二次面接を何とか通過した私は、東京本社で最終面接を受けることになりました。

 

まず、この転職活動を最初から応援してくれている病院の同僚たちと、本社への移動経路の確認。

午後の病院の業務が一段落した時間帯に、インターネットを覗き込みながら、飛行機の便の確認、本社の場所などなど、先輩・同僚みんなで真剣に考えてくれました。

沖縄出身の先輩方は、沖縄に放射線技師の養成機関がないため、東京の学校に通い放射線技師免許を取得されていました。半分東京の思い出話を盛り込みながら、“東京”について私に熱心に教えてくださいました。

何から何まで、当時の仲間のみなさんには自分のことのように私の転職活動に向き合っていただきました。本当に温かい方々で、沖縄の病院の先輩や同僚の方には今でもたまに連絡を取らせていただいています。

 

 

※ご注意※

しかし、このように同僚に転職を応援してもらえるパターンは稀です。

特に、病院勤務のコメディカルの皆様が医療機器メーカーを志望される場合、病院とそのメーカーの関係性によっては、問題になってしまうことがあります。

勤務している病院が、志望するメーカーの重要顧客であった場合などは、病院側に“優秀なスタッフを引き抜かれた”と、受け取られかねません。その点は、受け入れるメーカー側も十分ご留意されていると思いますが、入社までは転職先を伏せておくのが無難です。

 

いざ、最終面接本番、はじめてひとり飛行機で羽田に降り立ち、本社のある赤坂に向かいました。当時は乗り換えアプリの存在すら知らず、何とか本社ビルに辿り着いたわけですが、今思えば「なんで赤坂駅から行ったんだろう、赤坂見附のほうが便利なのに…」という、意味不明な移動をしていました。

ここが通勤先になるとは、このときまったく期待もしておらず、熊本出身病院勤務の放射線技師の私は、リクルートスーツを着て、赤坂の坂を上りながら「これTBS感謝祭でマラソンしてるとこじゃん!!」と、ディズニーランドにいるんじゃないかというテンションで面接場所に向かっていました。

その先にまず私を待っていたのは、面接前にお会いする約束をしていた、現職JCLコンサルティングの顧問、松本さんでした。

面接前に赤坂のカフェでいろいろとお話させていただいたと思うのですが、記憶に残っているのは、

「その腕時計、派手じゃないですか?」

と言われたことです。

「面接にはふさわしくない上にダサいと思われた!!」と、すぐさま外してスーツのポケットに入れました。松本さんがこのことを今も覚えているかわかりませんが、あまりの恥ずかしさにこのときのことはずっと鮮明に覚えています。そして今もこの腕時計は使っています。

 

いざ最終面接(このために東京に来たんだ)。

いわゆる面接というよりは、前回面接いただいた上長の方からオフィスのご紹介、また同僚となる先輩社員の方にご挨拶をさせていただき、自己紹介とご挨拶に徹していた記憶があります。田舎者だということを悟られないよう、ビジネスマンっぽく見えるように振る舞うことに必死で、何をお話したのかは正直細かく覚えていません。出身地や、東京ではどこに住めばいいのかなどのお話をしたのかな…。

面接が終わり、ひとりハイテンションで、まあまあの急傾斜の下り坂をものすごいスピードで走り下りました(よく転ばなかった)。ここは明確に覚えています。

「多分、私ここで働ける」

元々私は超マイナス思考なのですが、さすがにこのときはいけたと思っていました。

何事も結果が出るまで何があるかわからないのでよくないのですが、この帰り道だけ、ポジティブ人間に変身していました。

沖縄に帰り、ネガティブ人間にすっかり戻った私は、この面接のことも考えないようにして日々の病院の業務を頑張っていましたが、あまり待たずにオファーをいただけました。

 

この後はもう、沖縄を離れるまでの間にできるだけの恩返しをするべく日々の業務を全力で頑張ったり、東京の家を職場の先輩方に相談しながら考えたり、100%前を向いた素敵な毎日を送りました。

 

造影剤のアプリケーションスペシャリストとして、病院から医療機器メーカーに無事転職成功。

しかし、今思えばここは私の中では通過点でした。もちろん、当時はそんなことは微塵も考えておらず、入社後は苦労しながらも充実した日々を過ごし、全力で頑張りました。自社製品への愛情もとても強く、誇りを持って仕事をさせていただきました。今でもこの時の上司の方、チームメンバーの方とは交流させていただいています。

 

私は元々、病院勤務時代に使用していたMRIメーカーのアプリケーションスペシャリストの方々に憧れ、メーカー勤務を目指しました。よく転職の軸とは言いますが、当時の私の軸はまさにこれで、医療機器メーカー1社目に入社した後もこのことは包み隠さず、上司、周りの同僚、さらにはお客様にまで話していました。企業としては競合になってしまうのですが、部署の事業としては競合ではないので、皆さんは温かく私の思いを見守っていてくれていました。

 

このメーカーへは、病院勤務時代に10年間思いを育ててきており、簡単に忘れることができませんでした。アプリケーションスペシャリストポジションが空けば、当時の現職には隠して応募をし、不合格。それが2回です。

しかし5年後、とうとうこのメーカーのMRIの営業技術に従事することになります。

東京に私を連れ出してくれた1社目に勤務したメーカーの上長、チャンスをくれた現職顧問の松本さんには、今も深く感謝しています。

次回は、当時30歳、医療従事者の私が身寄りのない東京でメーカーでの勤務をスタート。人生最大の苦労体験について書こうと思います。

・・・次回へ続く。

 

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