診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~病院とメーカー勤務の違い編

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第六回です。今回は、病院勤務と医療機器メーカー勤務の生活と仕事の違い、苦労した経験を書こうと思います。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

 

医療機器メーカーへの9月の入社が決まり、私は熊本にいる父にその旨を報告しました。

この転職活動で、熊本の病院や健診センターにも一応面接に行ったりしていたので、父はすっかり沖縄から熊本に戻ってくるとばかり思っていたようです。

「私、9月から東京の会社で働く」と告げたときには、「放射線技師が東京の会社で何ばすっとな(何をするんだ)?」と、不思議がっていました。

病院で働く放射線技師にも、外資系大企業で働けるチャンスがあるんだぞ!

話を聞いた父は、私のキャリアチェンジをとても喜んでくれ、沖縄から熊本を飛び越えて東京に向かう娘を応援してくれました。

 

そして、8月下旬、私はひとり東京に降り立ち、新生活がスタートしました。

東京生活初日のことは、今でもよく覚えています。引っ越しの荷物は沖縄から船で後から到着予定だったので、家には何もない。

私は、「まず必要なのはチャリと友達だ!!」と思い、近所の自転車屋さんで自転車を購入しました。それまで車生活だったので、移動手段が何も手元にないことが不安だったのです。

そして、この自転車屋さんのお兄さんに「今日この街に引っ越してきました!」と、自己紹介をし、いろいろとお話し、お友達になりました(その方は、今でも近所の飲み友達です)。

 

こうやって、私の東京生活がスタートしました。

東京は人が多い。何をするにも並んで待たなければいけない。どこに行くにも電車。地方の生活とは違うところがたくさんあり、戸惑いつつも楽しんでいました。

しかし、地下鉄の朝の満員電車は衝撃でした。

電車を待つ長い人の列。そこにどんどん電車がやってきて、順次ぎゅうぎゅう押し込まれていく。「ディズニーランドのアトラクションみたい」と、思って見ていて、いざ自分が乗る番。いざ乗ってみると、もう驚きを超えて恐怖でした。

「何かの災害が起こったんじゃないか、車内の人みんな死ぬんじゃないか」乗車中ずっと本気でそう思っていて、電車を降りた後もしばらく気持ちを落ち着けることができませんでした。

そんな私も今では、満員電車の中でも涼しい顔をしています。

 

そして、当然ですが仕事に慣れるまでがとても大変でした。

特に最初慣れるのに苦労したのは主に以下の点です。

 

  ・スケジュール管理

       ・マルチタスク

  ・メールのやりとり

  ・プレゼンテーション

 

病院の業務は、検査のオーダーを受けてそれに画像診断情報を提供するのが仕事です。業務内容は毎日決まっています。就業開始時間も決まっていますし、自分の担当時間帯が終われば次の時間帯担当者が来て業務交代するので、毎日必ず定時に帰れました。そして次の日に自分の仕事を残すこともありません。夕方に家に帰ってもすることがないので、夜はドライブに行ったり、買い物に行ったり、完全に仕事から離れた時間を過ごしていました。

しかし、メーカーでの仕事は、自社製品の販売を促進することです。日々の業務に「ここまで」という明確なラインがないので、終業時間も決まってないですし、やろうと思えばエンドレスに仕事ができてしまいます。

それまで自分のスケジュールを自分で管理した経験がまったくなかったので、慣れるのにとても苦労しました。すっかり慣れた今では、「まあいいや。これは明日で」などと、普通に考えられますが、当時の私は「他の人はもっとやってるんじゃないか」と、自分がサボっているように感じて、なかなか仕事を終えられずにいました。

また病院時代は、レントゲンを撮るにもMRIを担当するにも、与えられた業務をこなす、という働き方だったので、同時に複数のタスクを抱える経験がありませんでした。優先順位を決めて業務を進めることが上手にできるようになるまでは、ずっと不安がつきまとい、結果的にどの仕事にも集中できず、中途半端になってしまうことがしばしばあったように思います。

 

そしてメール。これも最初はよくわかりませんでした。“メール”と言えば、当時の私は携帯電話のメールしか知らず(LINEは今ほど普及していませんでした)、彼氏や友達との連絡手段として楽しいものを想像していました。

しかし、メールのやり取りは立派な業務。…これが最初はまったく理解できず、メール確認やメールを書く時間を業務と見なしていいのかがわかりませんでした。

ビジネスメールを書くこと自体にも慣れていないので、インターネットを見ながら書いたり、先輩のメールを真似してみたり、メール一本送るのにも超がつくほど時間がかかっていました。

しかもそれを業務だと思っていないから、なおさら焦る。

さらに、会社からスマートフォンが支給されており、外でも家でもメールが見れてしまう。

先に書いた、スケジュール管理も上手にできないので、家に帰っても、買い物をしていても、飲みに行ってても、起きてから寝るまでずっと仕事をしているような感じでした。

 

そして、プレゼンテーション。病院勤務時代は研究会などで発表をしたことはありましたが、メーカーのプレゼンはわけが違います。話す内容を一言一句丸暗記して、週末は1人でカラオケに入りそれっぽくしゃべれるように練習。

そこまで準備をしても、毎回緊張と恐怖で声が震えていました。アプリケーションスペシャリストの方のプレゼンを見てメーカー勤務を目指したのに、全然上手にできず、落ち込むばかりでした。

プレゼンにある程度慣れた今だからわかりますが、そもそも事前準備のやり方が間違っていたんですね。プレゼンの目的は伝えたいポイントを相手に伝えることです。

始めの頃の私はそれがわかっていないので、丸暗記なんかしちゃっていたんですね。私は「プレゼンで失敗しないための準備」を徹底してしまっていたのです。

この準備方法だと、覚えた内容が飛んだら終わりです。それが怖くて緊張していたのです。

「相手に伝えるための準備」は、相手が何を求めているのかを把握することと、それに即してしっかり内容を固めること、これだけだと私は思っています。

これは今の仕事でやっている面接対策にも共通するので、いつかこのテーマでもブログを書きたいと思っています。

 

医療機器メーカーでの仕事、慣れない東京での生活は、とても大変で、くじけそうになったことも何度もありました。

でも、「すぐに熊本に帰るのはカッコ悪い、せめて2020年の東京オリンピックまでは東京で頑張ろう」と、自分に言い聞かせて頑張り、今があります。

「よくがんばったな」と当時の自分を褒めてあげたいです。

 

今では、仕事も東京も大好きです。

 

次回は、医療機器メーカーから最初の転職を考えるきっかけとなった、熊本地震の体験について書こうと思っています。

・・・次回へ続く。

 

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