診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~地元の震災で最初のメーカー転職を考えた編②

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第8回です。今回は、前回に引き続き、熊本地震でのボランティア活動をきっかけに考えた転職の話を書こうと思います。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

 

熊本地震発生後、街は大変な状態でも、熊本に住んでいる人たちには毎日の生活がありました。

私の弟は市の職員で、ある避難所のスタッフとして日夜駐在し、自分の部屋の片付けをすることもできない状況でした。私の元職場の病院の同僚をはじめ、医療機関の職員の方々も、自分の生活は二の次で毎日医療にあたられていました。

ある日お世話になった救急隊員の方に「お宅は大丈夫でしたか?」と声をかけたところ、力のない笑顔で「僕の家は全壊しました」と仰いました。そのような状況でも必死に救急活動にあたってくださいました。

熊本のみんなには毎日の生活がある。私は会社も休ませてもらってるんだから、私にできることは全部やらなきゃ。

その思いで、毎日一日も休まずボランティアに励みました。

 

震災発生後壊滅的な状態だった熊本は、全国から来て下さるボランティアの方、自治体職員の方、インフラ復旧にヘルプに来てくれている全国の企業の方、など全国の人々の助けもあり徐々に活気を取り戻していきました。

震災発生から2週間を過ぎると、倒壊している家屋や建物は散見されてはいましたが、毎日水が出る、毎日店が開いている、など徐々にライフラインが回復していく様子が手に取るようにわかりました。

ボランティアセンターに届く差し入れは、パンやおにぎりを企業からいただくことが多かったのですが、1ヶ月経つ頃には、ボランティアセンターがある公園に、キッチンカーや屋台を出しておいしいご飯を作ってくれる飲食店の方もいらっしゃいました。

明るい笑顔と励ましのお言葉、おいしいご飯に、私たちはとても元気をもらいました。

またある日、それまで震災後の活動を自粛していたくまモンが、私の通っていた熊本市ボランティアセンターにサプライズで応援に来てくれました。

ボランティアセンターは大いに盛り上がり、私も学生に混ざって飛び跳ねて喜びました。着ぐるみだから、復旧作業にはお役に立てないくまモンですが、いてくれるだけでみんな元気になり、前向きな気持ちにさせてくれました。

人々の心を元気づける仕事っていいなあ、私もくまモンの中の人になりたいなあ。

そのときは本気でそう思いました。

当時、私はボランティアセンターや避難所など毎日顔を出していたので、新聞やテレビの取材を受けることが多くありました。テレビに映る私の顔を見て、父と弟が「このアップは耐えられない!!」とお腹を抱えて笑っていたのを思い出します(失礼な)。

ある全国紙には、実名写真付きで「東京で会社員をしていますが、今後は熊本で地元のために働こうと思っています。」と、真剣に答える私のインタビューが掲載されました。

会社の人にこの記事を見られなくてよかったですが、そのときは心の底から、熊本に戻ろうと思っていました。

 

1ヶ月を過ぎて生活も落ちついてくると、時間もできて、冷静に今後を考えるようになりました。

 

まず、

私は熊本に戻って生活をしたいのか?

・・・Noだ。熊本には、私がやりたい仕事がない。私は医療機器メーカーでこれからも仕事をしたい。

 

次に、

毎日休まず朝から晩まで活動をし、東京での仕事より大変なはずなのに、このボランティアセンターでの生活から離れたくないという気持ちはどこからくるのか?

・・・充実していたからだ。本当に心からやりたいことをやっていたから、体は疲れても心が疲れることはなかった。

 

じゃあ、

東京では本当にやりたいことを毎日やっていないということなのか?

・・・Yesだ。今は製薬メーカーや販売代理店へ出向いての仕事が大半を占めている。私は放射線技師。薬ではなく画像診断の機器に携わって、もっと病院に向けた仕事をしたい。

東京にいる頃は、仕事で毎日忙しく、自分が疲れているのかどうかもよくわからず、自分が何をしたいのかを顧みる時間もありませんでした。

そして私、東京では疲れていたんだな。今の方が毎日元気だもんな。

震災は大変だったけど、そのことに気付けただけでも私にとってはよかったかもしれない。

それから間もなくして、東京に戻り、仕事に復帰しました。

1ヶ月も席を空けていたのに、会社の上司、メンバーは笑顔で歓迎してくれて、元気いっぱいな私を見て心から喜んでくれました。

みんないい仲間だし、この仕事はこの仕事でやりがいがあるはずだ。ここで頑張ろう。

…と、東京に戻った直後は思いました。

 

そして忙しい毎日に戻り、また心が疲弊してきたことに気づきました。

熊本で心が元気な日々が記憶に新しいので、このときはわりと早く気づくことができました。

 

やっぱり私、病院に向けて画像診断装置に関わる仕事をしたい。

病院勤務時代から強く憧れていたメーカーのMRIアプリケーションスペシャリストのポジションは、隠れて2回応募しましたが、2回とも面接で落ちました。(JCLにサポートしてもらっていたら、もしかしたら受かっていたのかもしれないと今となっては思いますが)

2回とも同じ面接官だったので、なんとも気まずい感じだったのを覚えています。

当時私が在籍していたのは大手外資系医療機器メーカーですから、部署異動という方法もあります。実際に他部署のマネージャーからお声をかけていただいたこともありました。でも、お世話になってきた上司やチームメンバーのことを考えると、私にはそれができませんでした。

 

そして私は、現職JCLの顧問、松本さんに緊張しながら電話をかけました。

メーカー入社のとき以来なので3年ぶり?そもそもこの人のおかげで今の会社に入れたのに、その会社を辞めたいなんて言っていいものなのだろうか、失礼じゃないのか。と、不安と緊張が入り混じった思いでした。

 

お久しぶりですね、などといったご挨拶もそこそこに、

「転職をしたいと思っています。」

「ああそうですか。それはどうしてですか?」

「薬ではなく、画像診断装置に携わりたくて、病院などもっと現場に出る仕事がしたいです。」

特に驚きもせず私の話を黙って聞いていた松本さんは、

「わかりました」

とだけ答え、その電話は終わりました。

・・・えっそれだけ?もっと聞くこととかないの?

 

しかし、かなりショートなこの電話をきっかけに転職活動が始まり、半年も経たないうちに私は次のメーカーに入社していました。

 

・・・次回へ続く。

 

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