診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~地元の震災で最初のメーカー転職を考えた編①

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第7回です。今回は、メーカーから最初の転職を考えるきっかけとなった熊本地震の体験について書こうと思います(※震災の話がメインになります。今回使用しているのはすべて実際の写真です)。今回は少し番外編ですが、特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

 

医療機器メーカー勤務4年目、ビジネスマンとして自分のやり方も確立しつつあり、医療機関・研究会でのプレゼン、提携企業との打ち合わせなどをこなすようになっていました。

そんな中、年に一度4月に開催される放射線画像診断関連メーカーにとって最も大きいイベント、パシフィコ横浜で開催されるITEM(国際医用画像総合展)のブース対応にあたっていました。

その期間中、自宅で晩ごはんを食べながらテレビを観ていたら、「熊本で震度7の地震」と速報が流れました。

 「え?熊本って地震起きないよ。噓でしょ」

嘘ではありませんでした。

この一回目の地震の次の日、熊本から学会に来ている同級生、先生方と話し、熊本の実家とも連絡が取れて安心していました。

が、次の日の早朝。

テレビをつけると、熊本で震度7の地震と大々的にテロップがずっと流れており、何だか前日までと違う緊迫感を感じました。

震度7の地震が2回?

それに気づいた後すぐ熊本の実家に電話しましたが繋がらず、パニック状態の私は、東京に住んでいる熊本の同級生に片っ端から連絡し、意外と冷静な同級生たちの声に安心させられました(知らない間に子どもを産んでママになってる同級生もいました)。

でも、熊本にいる人とは誰とも連絡が取れないので、現地はどうなっているのかまったく想像がつかないまま、その日は横浜の学会ブース対応を終日こなしました。

横浜の学会場に向かう早朝の電車の中で、スマホも見ず、何も考えず、窓の外を見ていましたが、ずっと涙が止まらなかったのを覚えています。

 

学会が終わった後、出社して仕事をしていたのですが、どうしても熊本の現状をこの目で見たくて、一緒に苦しい状況を乗り越えたくて、会社に相談したところ、結果的に1ヶ月を超えるお休みをいただけました。私の気持ちを理解して、このような対応をいただけたことは、今でも本当に感謝していて、忘れることはありません。

いざどうやって熊本に帰ればいいのか、という状況でしたが、熊本空港は私が帰ろうとする日に再開、熊本には難なく戻ることができました。(が、熊本空港は大変な状態でした)

熊本に戻ったら、想像以上に街が変わってしまっていました。

自衛隊、救急車、消防車などの緊急車両がひっきりなしに走っていて、夜の街は暗い。開いているコンビニを見つけても物がない。道の脇にはがれき、震災ごみが避けられていて道が狭い。お店や家屋などの建物も崩れているところが散見され、実家の近所のショッピングモールは2階の床がまるまる抜けて落ちました。熊本城は瓦がすっかりはげて色が変わっていました。石垣もほとんど崩れてしまっていました。

 

街がこのような状態でも、私が知っている人たちは何も変わらず、生きていて、普段と変わらない笑顔で私を迎えてくれました。

実家のリビング、元職場の病院の待合室、放射線科の操作室や技師室など、活動をする場の片付けについてはすでに終わっており、「お?帰ってきたねー」と、いつもの帰省と何も変わらないので、拍子抜けしてしまいました。

 

ただ、水道・ガスは止まっていました。水は、毎朝父と一緒に自衛隊の方にもらいに行き、

お風呂に入れないので、水で頭だけ洗うという毎日が2週間ほど続きました。

ガスについては、阪神大震災の教訓で地震発生後すぐに止められ、そのおかげで火災の被害を抑えられたそうです。熊本がこんなことになるなんて、夢にも思わなかった。

それまで、各地の災害をどこか他人事と思っていた自分を、心底恥ずかしく思いました。

 

私は熊本に戻ってから1ヶ月、1日も休まずボランティアに没頭しました。

めちゃくちゃになっている私の実家の部屋の片づけは後回しでした。

とにかく、大好きな熊本の人たちが苦しんでいるのが我慢できなかったのです。

自治体がボランティアセンターを立ち上げるまでは、子育てをしている友人へのおしりふきや離乳食の差し入れ(東京からスーツケースいっぱいに買って持ってきていました)、SNSで募集していた全国から届く支援物資の仕分け、震源地の益城町の被災者の方々への状況の聞き取りへ参加しました。

それでも我慢できず、私個人で避難所になっていた出身大学の体育館へ出向き、避難されている方々のお話相手、掃除などをしました。柔道場は避難所、体育館は支援物資の倉庫になっていて、バスケットゴールが歪んで無機質に支援物資が山積みの体育館にひとり立ち尽くし、学生時代のここでの体育の授業風景が思い出され、涙が流れました。

熊本は災害に慣れていませんでした。全国から来てくださっている自治体の職員の方、自衛隊の方、熊本市の連携が取れておらず、現場で起きていることを、SNSを使って当時の熊本市長に随時報告したりもしていました(SNSは復旧活動において多方面でとても役に立ちました)。

 

熊本市のボランティアセンターが立ち上がってからは、毎日通い詰めました。最初はボランティアの一員として現場で力仕事をしていましたが、1日も休まず足を運んだ結果、全国からボランティアに来て下さる方々のコーディネート、ボランティアセンターの運営に携わるようになり、最終的には熊本市の職員の方よりボランティアセンターのことをわかるようになっていて、熊本市職員の一員のようになっていました。

 

震災発生のずっと前から、熊本の私の出身大学にて、各医療機器メーカーからのリクルート説明会が元々予定されており、プレゼンターとして私がアサインされていました。

震災により一旦中止となりましたが、飛行機も運行しているので予定通り実施すると大学から連絡がありました。

上司や人事と電話で話していて、

「行ける?」

「行けますけど、スーツを持ってきていません。ボランティアのジャージでいいならプレゼン対応します」

このアイディアは即採用されました。

社員のことを第一に考え、柔軟な働き方ができるというアピールにもなります。

 

説明会当日、他のメーカーからはスーツの男性がプレゼンをされる中、ジャージにビブス姿の私が、学生のみなさんに対し、

「私はここの卒業生で、元放射線技師です。みなさんの先輩になります。

今は会社を休んでボランティア活動を毎日しています。本日は辛島町のボランティアセンターから抜けてここに来ました!このような恰好で失礼いたします。

それでは弊社で働く実際とやりがい・魅力についてご説明させていただきます。・・・」

と、プレゼンをしました。

後日、参加した企業の中で学生からのメーカー評価がトップであったと、人事の方からとても感謝されました。

熊本に戻って気が付けば1ヶ月を過ぎ、メーカーに入って3年、初めて仕事から完全に離れる時間を持っていました。

 

東京では毎日忙しく働いて、自分のことを省みる時間がなかった。

この1ヶ月、お金ももらえないのに私は1日も休まず活動した。大変だったけど、自分がやりたくてやってきたことだし、私は元気だった。

私は本当にしたいことを今東京でできているのだろうか。

 

・・・次回へ続く。

 

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