診療放射線技師、私のこれまでとこれからのキャリアを考える ~病院勤務時代編①

この記事を書いた人
石田 真美子

診療放射線技師として10年間病院勤務後、医療機器メーカー3社でマーケティングや営業技術を経験し、現在にいたります。
いろいろなところでお世話になったので、たくさんの人々と出会えました。
その方々のおかげで、今も充実した毎日を過ごすことができています。
現在は、臨床経験、メーカー勤務経験、培った人脈を活かして活動させていただいております。
よろしくお願いいたします。

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JCLコンサルティング シニアコンサルタントの石田真美子です。今回のコラムは、私のこれまでのキャリアを振り返るシリーズの第一回です。特に医療機器メーカーへの転職を考えている医療従事者の方、医療機器メーカーで勤務されている方、医療業界のリクルーターの方等には、“こんな人もいるんだな”と思っていただき、ご参考になれば嬉しいです。

私は診療放射線技師として病院勤務2施設を経て、外資系医療機器メーカー3社で勤務したのち、現職に至ります。経歴を見ると転職回数が多く、いろいろな業務を経験してきた私ですが、一貫して医療業界で勤務しています。

私が携わってきた業務経験と、何を考えて自分の進路を選び、その結果何を得てきたのかを振り返りたいと思います。今回は医療業界を選んだところから、1社目の病院から2社目の病院への転職に至るまで、を書こうと思います。お時間ありましたら是非ご一読いただけると幸いです。

私は、幼稚園児のときにすでに医療業界を目指すと決めていました。「おとなになったらなにになりたい?」というよくある将来の夢を尋ねる問いかけに対し、周りの女の子がケーキ屋さんやお花屋さんと言う中、私は「おいしゃさんになりたい」と言っていました。

「え?どうして?」

「おきゅうりょうがたかいから」

という、一瞬ぎょっとするようなことを周りの大人やおともだちに言っていたのを覚えています。でも金銭面だけではなかったようで、“ひとのからだ”という図鑑を擦り減るほど読み込んでいました。

私は子どものころ、自家中毒という小児疾患で、日曜日に遊んだ次の月曜日は必ず頭痛と嘔吐に苦しんでいました。そういうこともあり、病気で苦しむ人のために役に立つお仕事に就きたい!・・・と思っていたんだと思います。多分。

高校生になり、本格的に進路を決める時期になりました。医学部に行きたいけど、私は、数学はてんでダメ、物理も0点を取るほど理系科目が苦手で、国語英語で偏差値を稼ぐ典型的な文系人間でした。医学部はたとえ浪人しても行けるかわからないし、そもそも絶対浪人はしたくない。

あっさり医学部をあきらめて、医療関係以外の職業を進路指導室で調べていました。そこで、職業紹介本を立ち読みしていたときに、“診療放射線技師”という職業を知ったのです。

「これだー!!」と思いました。私は性格的に看護師にはなれなさそうだし(病院で働く人を医師と看護師しか知らなかった)、でもなんとなく、ビジネスと呼ばれる業界は、人に直接に役に立つイメージが当時の私は持てず(お金稼ぎ?と思ってしまった)、興味が持てずにいました。そんな中、ゲーム大好き、車やコンピュータなどメカが大好きな私に、病院で働く仕事があったー!!という喜びと決意のもと、自分の進路を決めました。先生には、「お前は物理ができんだろうが!それと被ばくするけんな、女子は危なかばい」と、当時反対されましたが、“女性は○○”をひどく嫌う私(※前回コラムをご参照ください)には、それも追い風になりました。

そして私は無事地元の熊本市内の中規模整形外科専門病院に就職しました。手術件数も多く、CT・MRI2台・SPECT装置が稼働しており、放射線技師のキャリアとして私が考えるには申し分ない規模の病院でした。

まず放射線技師の業務は一般撮影(レントゲン)を覚えるところから始まります。整形外科領域の一般撮影はバリエーションも多く技術も必要で、ここでは他の病院のどこの一般撮影室に行っても困らないくらいの技術を身に付けました。後述する、次の転職先の総合病院で、一般撮影の正確性とスピードで、まず同僚の信頼を得ることができたのも、この病院での経験のおかげです。手術室の撮影、病棟のポータブル撮影、CTなどを担当しつつ、3年目くらいでやっとMRIに携わらせてもらえました。

私は、MRIが一番好きでした。モダリティの中でいちばん自分の裁量・スキルを反映させることができ、放射線科のドクターにも検査内容を提案できる、それによって自分が頼られている、という気持ちになるのはとても楽しいものでした。

そして、そこで初めて医療機器メーカーで働く方々に憧れを覚えたのです。MRIの地域ユーザー会で、技術講演としてアプリケーションスペシャリストの女性の方がプレゼンテーションをされるのを聴講しました。その後、喫煙室でその方と一緒になり(20年ほど前です)、白いスーツとロングヘアをなびかせるその姿に「かっこいいなあ。東京から来てるんだろうなぁ。」と、目を奪われました。

また、メーカーのホームページには、現場で活躍する女性アプリケーションスペシャリストのインタビュー記事が掲載されており、その輝きが眩しすぎて目がくらんでいました。

でも、「そんな風に思う放射線技師は全国に大勢いて、私なんかより優秀な人がたくさんいる、私には絶対に手が届かない世界だ」と、芸能人を見るような感覚で見ていました。

15年後、自分がその憧れの人たちと一緒に仕事をして、一緒にお酒を飲んで、LINEを交換するような仲になれるとは知らずに。

当時の医療現場で関った他メーカーの方も、みなさん本当に今でも感謝しています。いつも装置が壊れたらすぐ来てくれて、一度釣りにも連れていってくれてずっと私の釣り竿にゴカイを付け続けてくれたエンジニアの方、新しく導入されたワークステーションのマニュアル作りに深夜まで付き合ってくれたアプリケーションスペシャリストの方、いつも先生のご機嫌を私が教えてあげるかわりに、いろいろなお話を聞かせてくれた営業の方(この方も後に一緒に仕事をすることになります)。とにかく、放射線技師は装置が動かないことには仕事ができないので、いつもメーカーの方にはお世話になっていました。

そんな毎日を過ごしていた私が、勤続5年を過ぎたころのある日、MRIを操作しながらふと先輩技師さんに、「これ以上レベルアップするにはどうすればいいんでしょうか」と聞いたところ、「ここにはもう上はなかよ」とぽつんと言われました。その先輩は新卒から20年、働き続けている方です。この場面は、今でも鮮明に覚えています。今考えれば学会発表や博士課程修了を目指すなど、突き詰めれば何でもあるんですけどね。

私は、合格した東京都立の大学を蹴ってまで熊本に残るほど地元愛が強い人間でした。

熊本を出るなんて考えられず、一生この病院で働くぞ!と信じて疑わず毎日を過ごしていました。が、消化器科や循環器、婦人科は経験できない。よし、総合病院に転職しよう。

・・・しかし、熊本市内の大規模病院はどこも競争率が高く、中途での入職は非常に困難でした。

そこで、放射線技師の養成機関がない沖縄に目をつけ、大規模総合病院、健診機関を要する医療法人に応募しました。沖縄楽しそうだ!面接も沖縄まで行きましたが、土地の雰囲気もあり、半分旅行気分だったのを覚えています。

結果内定をいただいた私は、幼少期からずっと過ごした大好きな熊本を出て、放射線技師免許と、熊本からフェリーで運んだ愛車のMR-Sを携えて、身寄りのない沖縄の、次の勤務先となる総合病院へひとり向かいました。26歳の時でした。

ここから、2社目の私のキャリアがスタートします。  ・・・次回へ続く

 

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